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プロローグ 2001年の晩冬、バスを降り立った新潟市の朝の気温は4℃と風も強く肌寒いが積雪はほとんどない。ここ20年で大雪はあまり見られなくなったそうだ。10時、市街地からバスで郊外へ向かう。10分程走ると静かな住宅街に入り、放送局はそのエリアの中にあった。中に入り受付で訪問を告げると、しばらくして広報部長さんが来て対応して下さった。このような機会を与えてもらったことに礼を述べしばらく談話した。そして、さっそくビデオ資料室に案内される。12畳ぐらいの広さだろうか、編集機材が大半を占有している為狭く感じる。「会社には視聴室という特別な部屋がないものですから、ここで我慢してください」ということだった。編集作業中の社員の方がおられたがその後ろに座らせていただく。私がリクエストしておいた3本のビデオテープはすでに用意されていた。広報部長さんが隣で時々映像の説明をして下さる。1本目は「瞽女ごめんなしょ」、1975年放送の映像で2部に分かれており、1部の映像が始まる。 |
高田瞽女 「♪母はそなたに別れても 母はそなたの影にそい 行末永う守るぞえ とは言うもののふり捨てて これになんとかえりゃりょか 離れがたないこち寄れと 膝に抱き上げ抱きしめ これのういかに童子丸 そちも乳房の飲みおさめ たんと飲みゃえのう童子丸 ・・・・・・♪」 瞽女さんが三味線の伴奏に合わせて歌っている。段物(だんもの)と呼ばれる瞽女(ごぜ)唄の中でも一昔前の時代、特に人々が好んで聴いたという「葛(くず)の葉子別れ」を杉本キクイさんは格調高く歌い上げる。高齢に達しながらも衰えを見せないその張りのある優しく柔らかい歌声。杉本シズさん、難波コトミさんもその師匠の横で声を合わせる。上越地方 高田市内の公民館。じっと聴き入り涙まで見せる聴衆。昔の光景が蘇る。昔。昔といってもつい数十年前の昔まで370年以上も続いた瞽女。中でも今歌い上げている3人の女性、高田瞽女が最後の旅を終えたのは、東京オリンピックの年の昭和39年。時代は瞽女を必要としなくなり、また残り少なくなっていた瞽女も高齢になっていた。あれから10年以上の時が流れてきたが、高田市内の杉本家でひっそり暮らす3人に、瞽女唄を懐かしむ人々からのリクエストは絶えなかったという。そしてとうとう3人も断りきれず、瞽女唄を披露することとなった。人々はしばし昔に帰った。昭和50年代の映像だった。 |
左から杉本キクイさん、難波コトミさん、杉本シズさん |
最後の長岡瞽女 続く映像は場所が変わって下越地方の長岡市周辺。高田瞽女が旅に出なくなり瞽女の仕事をすでに終えていた頃、まだこの地方では現役の瞽女さんがいた。長岡瞽女の中静ミサオさん、金子セキさんと手引きの関矢ハナさんの3人だった。目の見える関谷さんを先導に、2人の瞽女さんが前の人の荷物や肩に指をそえて3人が連なって歩く。そして民家の入り口に着くと玄関を開け、関矢さんが開口一番「ごめんなしょー」と入っていく。中から家人が出てくると2人の瞽女さんは三味線を弾き、門付け唄を歌い始める。 「♪遠く離れて 苦労するよりも 浮気されても そばがよい 梅や桜や朝顔よりも 主の便りを菊の花 梅もいやだよ 桜もいやだ ちょっとこちらへ ゆりの花 ♪」 門付け と呼ばれるものである。唄の見返りに家人は心付けを渡す。茶碗一杯分の米を渡すところが多いという。時にはお金や綿であった時代もあった。村を門付けして回った後は、一昔前ならここからが本番。瞽女宿でひと風呂浴びて綺麗な着物に着替え、夜集まってきた村人の前で大宴会が始まったものだった。段物・口説(くどき)・長唄・端唄・義太夫さわり・流行(はやり)唄・雑歌。その時代の流行を取り入れた唄や、昔の伝統を保つ貴重な唄など数百曲にのぼるレパートリーが披露されたという。しかし、それはもう昔の話。昭和50年代の長岡の瞽女さんは、門付けの後は瞽女宿の囲炉裏で昔話に耽る。やがてそんな時代もとうとう終わる。昭和52年4月25日に新潟県北蒲原郡黒川村の養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入ることを金子セキさんが決める。さらに同じ年の6月22日、同ホームに入ることを中静ミサオさんも決心し、長岡瞽女、ひいては日本の瞽女の活動は370年以上の伝統をもってこの年に終わった。 |
![]() 左から中静ミサオさん、関矢ハナさん、金子セキさん |
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ロング・ウォーク・ホーム 3本目、最後のビデオテープが回り始める。「よみがえれ瞽女唄 最後の瞽女 小林ハルの一生」。昭和40年代から60年代にかけての映像を元に、小林ハルさんの人生を振り返る番組。新潟県北蒲原郡黒川村に養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」はある。目の不自由なお年寄りのためのホームである。食堂に集まっての朝食。次にみんな集まって、やすらぎ体操で体を動かす。その後の散歩などは、施設の裏手に山もありそんな自然の中で行う。散歩は世話役の人に連れられて、片方の手でロープに繋がれた輪を握り、もう一方の手は前の人の肩や腰に置いてみんな連なって歩く。その季節の花や植物を寮母さんに案内されて、手に取り臭いを感じ取る。ハルさんの部屋にはかつての弟子など瞽女仲間が集まって談笑が始まる。やがて夕方になり、17:00になると夕食。目の見えない彼女達へ、針時計の短針の位置を例えにして献立の説明が始まる。「7時がごはん。11時が昆布の佃煮、1時が炊き合わせ、5時が長芋とふきのとうです」。時計を思い浮かべて食器の位置がこれで把握できる。その後は自由時間で、20:00頃には就寝する。ハルさんにとって心安まる自分の家。そして、この家の墓に入ることも決めた。ここに来るまで、長い、長い、厳しく険しい道のりだった。 |
引退 この家に入る前、ハルさんは新発田市の養護老人ホーム「あやめ寮」に居た。その「あやめ寮」に入ることを自分で決めてホームに発つという日の前日、瞽女との別れを告げる為に瞽女の正装を着て法華寺の石段に腰掛け、湯治客を前に唄を歌い始めるハルさんの映像が映し出される。昭和48年5月28日、場所は13年間住みついた温泉町の出湯。響き渡る強烈なハルさんの歌声。最後の瞽女唄を感謝の気持ちで客に歌い、奉納をした。「ほっとしたようで、今までになく安らかな表情でした」と、ハルさんをこの地で世話していた旅館の主人は言っている。その主人夫婦と近所の人達に見送られながら車で出発するハルさん。最後まで「ありがとうございました」と繰り返すハルさん。1度はこの地で骨を埋める覚悟で来たんだったが、そうはならなかった。どんな気持ちでこの地を去って行ったのだろう。 出湯に住むことになったのはハルさん61歳の昭和35年7月からだった。家は石水亭旅館の主人が所有していた空家。当時の弟子の桜井ハルと養女の操が一緒だった。桜井ハルは昭和37年に中気(脳卒中)で死去している。しかし、同年に養女の操と結婚した婿との間に初孫が生まれ、やっと幸せな家庭が現実のものになるかと思えた。この頃の映像として、目の見える操を手引きにこの地を瞽女の仕事で回っているハルさんの映像がある。楽しそうな親子。後に3人の孫に恵まれている。しかし、出湯に来て10年近く経つ頃、あれだけハルさんを慕っていた操もハルさんを邪魔者扱いし始める。操とその婿は共にちょっと気持ちのいい人(ごく軽度な知的障害のある人)であったという。その間に生まれた3人の男の子も大きくなるにつれて障害の度合いを強めていき、病院に通ったり、遠くの施設に預けなくてはならなくなる。婿も働いたり働かなかったりという生活が続く。崩壊寸前の家庭。一家の支えはハルさんの瞽女や按摩仕事での収入だった。ある日、とうとう操までが「こんな不幸なのは家に盲がいるからだ」と言い始める。ハルさんを慕う孫から、そっと「婆ちゃんだけ悪いもんばっかり食わされてる」と教えられることもあった。目が見えないことをいいことに食事にも差別を受け始めていた。それでも自分が我慢して少しでも良くなってくれればと、悪い音は出さずに働き続けた。しかし、夫婦して「婆ちゃんが死ねば子どもは満足になるんだ」とまで言う。そして、老齢に達し体の衰えを痛切に感じていたし、体も強い方ではない。いっそのこと死のうと思った。1度は部屋に紐をぶら下げて踏み台を置いたが、人が来て果たせなかった。2度目は冬にシャツ1枚で川へ行ってみた。川に身を投げるつもりだった。でも村の人に出会ってしまって、危ないから早く帰れ、と言われ果たせなかった。そんなある日、孫を手引きに役場へ足を運んだ。昭和48年、73歳の年の5月、自ら老人ホームへ入る覚悟を決めた日だった。映像にはこのような経緯は紹介されていない。「操さんに後をゆずり、ハルさんは老人ホームに入ることを決めました」というナレーションがあるだけだが、事実はこういうことだった。ハルさんは、「老人ホームに入ってもずーっと孫のことは思っていた」と話す。 |
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無形文化財 映像は「胎内やすらぎの家」に戻る。ハルさんの部屋にはかつての瞽女仲間達が集まっている。山田シズコ、金子セキ、近藤ナヨ。手探りでお茶を入れ、お菓子を出し合い昔話や噂話に耽る。部屋には額が飾られ、「黄綬褒章」の文字。ハルさんは昭和53年78歳の時に、国の無形文化財(人間国宝)の選択を受ける。さらに昭和54年4月には黄綬褒章を授与される。高田瞽女の杉本キクイさんと刈羽瞽女の伊平タケさんに比べて、8年後の無形文化財選択、6年後の黄綬褒章受章となる。前者2人が無形文化財に選択された頃、ハルさんは出湯に住み、必死に瞽女をしたり按摩をしたりして苦しい生活を支えていた時期だった。ハルさんの存在自体が学者の間でほとんど知られていなかった。それが、三味線を手離し瞽女ときっぱり縁を切り、老人ホームで静かに死んでいく覚悟をして入所した後に、外では大きな変化が起こり始めた。出湯時代のハルさんの唄を知る民俗学者、佐久間惇一氏の努力でハルさんのその貴重な瞽女唄が後世に残るように、新発田市教育委員会が録音することが決定した。抜群の記憶力と厳しい修行の末に叩き込まれたその唄は一言一句まで正確で、記憶にある唄は500曲近くに達していた。そして、目の見えない瞽女さん達が口承で残してくれたその唄は日本の原型を伝えてくれる非常に貴重なものだったことが再認識された。老人ホームから瞽女唄のレコーディングに通い始めるハルさん。自分が瞽女として生かしてもらった、その恩返しのつもりで頼まれればどこへでも行って歌った。「胎内やすらぎの家」へ移った後もその活動は続けられ、後の無形文化財選択、黄綬褒章授与、竹下玲子さんとの出会いに繋がっていく。人間国宝に選択された時ハルさんは、「おらは声が出ないで、歌が下手で、ぼっこれ薬缶だった。今は瞽女が少なくなって、おら、生き残ってるからもらっただけなんだ。文化財づらあろば」と言っている。また、天皇陛下に拝謁する黄綬褒章の受章式典も「体が悪いことにして行かなかった」と言う。その後の生活は何も変わってはいないし、変えてもいない。自分のできることを頼まれれば「ハイ」と言って引き受けただけだった。この一筋に貫かれた心はどこから宿ったのだろうか。 |
![]() この頃の小林ハルさん |
原風景 ハルさんは明治33年(1900年)に新潟県南蒲原郡井栗村三貫寺の村に生まれる。家は比較的裕福な農家で小作人も使っていた。生後100日で、そこひ(白内障)になり失明した。それからは、瞽女にもらわれる5歳になるまでの間、生活空間の全ては座敷の一番奥にある寝間だった。あの家に盲がいると言われるのがいやだったんだろう、とハルさんは言う。そんな時代だった。その部屋は窓が二重になっていた。3度の食事は家族とは別に全て寝間に運んでもらっていた。兄や姉は相手になんかしてくれなかった。それでも、ハルさんが2歳の時まで生きていた父は、「ハル、いい子にしていれよ。じっき上がってくるからな」と言って田んぼに行き、夕方戻ってくると、「ハル、帰ったぞ」と声をかけたり、庭で抱いてくれていたという。しかし父が死んでからは、そんな普通の親と子のスキンシップもなくなる。「まるで他人の家にいるようだった」と語る。だが、孫じさま(祖父)や母はハルさんのことをちゃんと考えていたのだろう。甘やかすことなく育て、瞽女の道を見つけてくれた。5歳の年の3月、三条組の瞽女、樋口フジ親方に弟子入りする。21年の年季で弟子入りし、その間の食いぶちや稽古代は家で出し、もしハルさんが勤まらなければ縁切り金を出すことに決まる。しかし当分の間は旅には出ず、実家での稽古と躾の日々が続く。ハルさんの母は喘息だったから家でご飯をつくったり掃除をしたりしていた。この時代に嫁が田畑で働けないということは、どんなに肩身の狭い思いをしたことだろう。ましてや夫(ハルさんの父)が亡くなってからはなおさらだったろう。だからこそ、ハルさんには自分のような思いをさせたくない一心で、盲目でも1人前に生きていけるように、妥協を許さず厳しく躾たのだろう。母と娘の濃密な付き合い、格闘の日々が続くことになる。朝は6時に必ず1人で起きねばならないし、起きねば朝飯は抜きだった。ある日、姉といさかいを起こした。一方的に姉が悪かったのだが孫じさまは、「一生、他人様の世話にならねばならない者がなんだ。たとえお前が悪くなくても負けねばならないんだぞ」とハルさんを叱った。ハルさんを思っての躾だった。針孔通しの稽古は大変だった。母はいろいろなやり方を考えては、目の見えないハルさんでも通せるような方法を試させていった。糸を通せれば次は縫い物や編物。7歳になると唄と三味線の稽古も加わった。1日8時間みっちり仕込まれる。三味線の稽古では、ハルさんの指の皮は捲れあがって血だらけになった。また真冬になるとあえて、この寒中に外に出て歌う稽古、寒声(かんごえ)が始まった。朝の2時間と夜の3時間、歌いっぱなしだった。着物はさらし1枚と腰巻にネルの単衣で素足にワラジだった。その上に日中の6時間はみっちり親方との稽古であった。夜11時になると、夜なべをして待っていてくれる孫じさまが「ハル、時間だぞ」と言って外に迎えに来てくれる。それからぬるい風呂に入って寝るだけだった。1日10時間以上に及ぶすさまじい稽古だった。声はつぶれ咳をすると喉から血が出た。唯一の救いは、寒声の稽古は12月ひと月と決まっていたことで、指折り数えて切に待った。9歳の年、寒声の稽古や医者に行くとき、神社参り以外は出たことのなかった外の世界に出れるようになった。瞽女の旅に出る準備だった。初めての世界。スズメやヒバリやたくさんの小鳥の鳴き声。空気はうまい。何もかもが新鮮だった。ご飯のことも忘れて遊んだ。天気の良いある日、村の子ども達と花摘みをしていた。フキだとかモチ草は形で分った。ふと村の子が「ハル、この花色が違うぞ」と言う。同じ花を取ってきたのにおかしいな、と思う。「ハルなんか、いくら言ったってだめだ。ハルは盲なもんだから色が分らないんだわ」と村の子。ハルさんは聞き返す。「盲ってなんのことだね」。「お前、盲も知らないんだか。盲って目の見えないことだわ」。ハルさんには何を言っているのか理解できない。それが色が分らないのと、どういう関係があるのだろう? 自分が目が悪いということは分っているが、盲というのとどういう関係があるんだろう? と思ったという。さっそく家に帰り母に聞くハルさん。母は声を出して泣いてしまった。そして、村の子ども達のところへ行き、「盲だなんて言わないで仲良く遊んでやってくれ」と言ってくれた。その晩母は、ハルさんの寝間にランプを持ってやって来て、灯りを利用しながら目が見えないとはどういうことかを教えてくれた。色のことも話してくれ、最後にこう言った。 「ハル、おまえは目が見えないんだから、何か商売でも覚えないばならないもんだ。これから瞽女に出ても、親方のいうことはなんでもよく聞かねばならないもんだ。もし、盗人をかずけられた時は黙ってなんかいられないが、あとは自分が悪くなくたって、あやまっていないばならないんだぞ。盲は、1人で逃げることだってできないんだから、決して余計なことは言うもんでない。ただ、『ハイ』とさえ言っていればいいんだからな」。 その時母は泣いていたが、なぜ泣くのかはまだハルさんには分らなかった。 |
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![]() 瞽女の旅 |
修行 16歳の年ハルさんはフジ親方から離れることになる。親方の勝手な都合で辞めさせられた形であった。幸い同年に長岡系の五千石組の瞽女、ハツジサワから声がかかり、長岡瞽女屋敷の妙音講 に一緒に行き、サワの弟子になることができた。サワ親方は越後最大の瞽女集団の長岡瞽女であったから、ハルさんは大工町の長岡瞽女の総本山瞽女屋敷を訪れ、総元締めの山本ゴイの前で唄を歌わされた。テストは合格で晴れて、長岡瞽女五千石組のサワ親方の弟子に正式に決まる。長岡瞽女は色んな組があって所属人数も多いから、色々な人と組まねばならない。それが瞽女の1つの修行だともいわれた。ハルさんが後年になって、「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。難儀な時やるのが本当の仕事」と、言っているのは主にこの時期のことを言っているのだろう。19歳の年、その組み合わせが悪かった。1人はおツマさん。43歳くらいの親方だったが、弟子のサヨがハルさんをヒステリックに叩いても注意一つしない、本当に何も言わない親方だった。もう1人はそのサヨであった。サヨは25歳くらいだった。気の短い、いつもイライラして、ヒステリックな人だった。そのサヨが手引きだった。旅はハルさんを合わせその3人。サヨは歩いている時でも杖棒でハルさんの足を叩いたり、物をぶっつけたりするんだった。親方のおツマは目が見える人なのだが見て見ぬふりをしている。また、この2人と組む旅が一番長い旅だった。春は加茂在をまわっていた。門付けして歩いていた時に唄を聞くために、子守りをしている年寄りがついて来ていた。その時ハルさんは小さな堀に落ちてしまった。たいした事はなかったが、それを見ていた年寄りが手引きのサヨに、落ちないように注意してやればよかったのに、ということを言った。サヨはその時は黙っていた。しかし、誰もついてこなくなり、村を外れた時に怒りを爆発させてハルさんを押し倒した。ハルさんは荷物を担いでいたから、そのままあお向けにひっくり返ってしまった。サヨは、「おれを悪者呼ばわりしやがって!」と金が付いた杖棒でハルさんの大事な所を2回も3回も突いた。「おらが悪かったから勘弁してくれ。どうしょうば、目が見えないで堀っこに落ちたのがいっち悪いんだ。どうか許してくれ」と言ったがだめだった。パンツもモンペもはいていない時代。大事な所から出血し始めた。荷物を下ろし、自分で止血し村へ引き帰してサヨに医者に連れて行ってもらう。ただ事ではないと医者は言ったが、ハルさんは「ころんで木の根っこに引っかかったんだ」と言い張った。サヨもさすがに気が引けたのだろうか、何も言わず手引きを続ける。ハルさんはその夜、激痛に耐えながら門付けを続け、夜の宴会までも勤め果たした。翌日は、妙音講の日が近づいてきているので長岡へ向けて帰る。長い道のりをひたすら耐え続けた。そのことは誰にも明かさずその後も過ごす。長岡へ帰った翌日に、長岡の医者に行ったら、子どもができるように治すには百円かかると言われた。「当時の百円だもの。私は瞽女で、そんな所は用事のないものだからそのままにしてしまった」とハルさんは言う。 |
ヨシミ ハルさん22歳の年の6月、サワ親方が38歳の若さで急死する。ハルさんにとって気の合う優しい親方だった。やっとめぐり合えた親方ともこれでお別れだと思うと泣くより他はなかった。その後の身の振り方にはいくつか選択肢があったが、妹弟子のヨシがツタの組の人達と歩いて、折檻され足を痛めて帰ってきて、中条組と歩きたくないと訴えた。それでハルさんはヨシと2人で長岡瞽女を離れ、手引きのタマを入れて3人で歩き始める。そして、その年、坂井ツルの弟子となる。「年季を決めないで、ハルのいいようにいてくればいい」と言われて弟子になった。同時に住居も小須戸に移し、ツル親方と弟子のナカ、ハルさんと妹弟子のヨシの4人での生活が始まった。26歳の年の3月、小須戸からヨシミという2歳の女の子をかかり子(養女)としてもらった。色々事情があって、どこの家にもいらないと言われた子で超未熟児だった。ハルさんはヨシミをおんぶして旅に出始める。2歳なのに体が赤子のままで体も弱かったから、それこそ気を付けて歩いた。親方や弟子もヨシミの面倒を見てくれたし、ヨシミはみんなになついていった。後年ハルさんはこう言っている。「大きくなってからもらった子どもは何人も育ててきたが、小さい時からもらった子はやっぱり違っていた。私の出ないお乳にしがみついて寝たりするもの。ほんにヨシミはかわいくて別だったね」。我が子としてずっと育てていくつもりだった。学校に行かせて、知人の仕立て屋に頼んで仕立て屋にでもさせようか、と夢見ていた。しかし、ハルさん28歳の年の3月、ヨシミが4歳の年、加茂在をヨシミを連れてまわっていた時にヨシミは風邪をひき、急性肺炎にかかってしまう。急遽、黒水の病院に入院させる。2日目の夜は一晩中、「母ちゃん、母ちゃん」と言ってハルさんのお乳をいたずらしていたが、4月13日の朝方夜明け前に死んでしまった。新しい着物を着せて2日かけて葬式を出した。戒名ももらったし、位牌もあったがヨシミの生まれた家のヨシミの実の父親にやってしまった。2年間育てた子どもだった。その後、村を回る度に「あの子はどうした」と聞かれるのが辛くて、1年くらいは唄も歌いたくなかった。「私の体さえ満足なら、ヨシミだって生まれ変わってくるかも分らない。相手を見つけて、1人くらい自分の本当の子どもが欲しかった。そんなことを今まで思ってもみなかったが、ヨシミが死んだ時だけはそう思い思いした」とハルさんは後年語っている。 33歳の年の6月。その頃にはもうツル親方は働きに出ることはなくなっていた。ある日ハルさんが自分たちの働きを親方の所へ持って行った時、親方は、今度からハルさん1人で来るようにと言う。親方にも家の事情があるのだが、弟子や子どもに来るなと言われる所へ自分だけ行ってもしょうがない。弟子に対しあまりにも申し訳ない。それで結局、この年ハルさんはツル親方と別れることとなる。この年の暮れは実家でミス・ハル子・シカノの稽古をつけた。 |
弟子 ツル親方と別れる前の28歳の年、米沢歩きの時にシカノ(当時15歳 弱視)が弟子となり、次いでハル子(当時13歳)が入門。35歳(昭和9年)の年の5月に土田ミスを弟子とした。ミスは弟子といっても四郎丸瞽女として働いてきて26歳になっていたから、「一緒に歩きたいなら、それでいい」とハルさんは言って、年季勤めも縁切り金も無しという待遇で寄り弟子という形にした。同年に近藤ナヨ(当時14歳)が入門。だから、ハルさん35歳の年の弟子は、ミス・シカノ・ハル子・ナヨの4人となり、ハルさんの仲間の長谷川スギとその弟子の山田シズコと一緒になって、およそ2組に別れて巡業に出た。しかし、ハルさん37歳(昭和11年)の年、ミスが按摩の男の妾となったことは前述したが、同じく弟子のシカノも、その按摩の男の友人の男と同棲しハルさんの元を離れた。離れたというより、ハルさんは「そんなに好きならしょうがない」とあきらめて祝い金まで持たせているから、送り出したということになるが。ハル子もその後、瞽女を辞め、近藤ナヨは事情があってハルさんが実家に帰した。つまり、弟子が一挙にいなくなったことになる。だからこの頃の旅は仲間の長谷川スギと山田シズコと組むことが多くなり、家も魚沼に移している。ちなみに、近藤ナヨと山田シズコとは「胎内やすらぎの家」で再会することになる。 前述したように、この後に高瀬へ居を移すのだが、その理由は、土田ミスが心配だった事の他にもう1つあったのではないかと思われる。全ての弟子がいなくなり、実家にももう居場所はない。少しでも頼れるのが土田ミス唯1人だけだったのではないだろうか。土田ミスは按摩の男と別れた後もずっとハルさんと組んで旅を続けた。昭和53年に土田ミスが急逝するまで苦労を共にした。ミスの死はハルさんを愕然とさせ、落ち込む日が続いたと言う。 |
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エピローグ ビデオテープを見終える頃、正午をすでに回っていた。放送局の社員食堂でお昼ご飯をご馳走になる。とろろそばを大盛りにしてもらった。関西育ちの私は醤油ベースのつゆはほとんど経験がないのだったが、ここのつゆは、とろろと混ざり合った味が絶妙で味わい深くいい臭いがしていた。そんなことに1人で感心していたら広報部長さんはすでに食べ終えていた。その後、オフィスの方に案内していただく。あらためて広報部長さん、編成局長さんにお礼を述べ、談話を少ししてから放送局を後にした。空は少しだけ曇り、気温はかなり暖かくなっていた。新潟市内をうろつき、夕方の特急で大阪に向かう。雪の少なさと新潟らしさに出会わないことに内心がっかりしていたら、新潟県は東北と南西に長い県であった。弥彦山を右手に見ながら吉田を過ぎ、柏崎、直江津、糸魚川と進むうちに銀世界が広がり、ひたすら続く田んぼの風景が出現していた。柏崎からは雪も降り始め、車窓から見える日本海の荒波は、瞽女を思い起こすにはすばらしいロケーションだった。その時に描いた流れが本文です。ビデオテープの映像を元に頭の中で描いた瞽女さんと文献資料とを重ね合わせて文にしました。一応のチェックはしていますが名前、年代等に誤りがあればお許し下さい。本文は私がなぜかのめり込んでしまった瞽女さんについて、私なりに、現段階で頭の中の整理をするためにまとめたものです。どんな映画よりも心を揺さぶられた小林ハルさんのストーリーを中心に、ここに載せた次第です。 |
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新聞記事から 昨年の新聞記事から小林ハルさんの記事を抜粋しました。 (読売新聞 2000年1月25日付) ● 最後の瞽女、小林ハルさんが満100 歳迎える。 「最後の瞽女(ごぜ)」と呼ばれる人間国宝(国の無形文化財の保持者)の小林ハルさんが、入居している黒川村の養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」で、満100 歳の誕生日を迎えた。三味線一つで各地を渡り歩き、唄を披露して報酬を得た盲目の女旅芸人、瞽女。江戸時代に組織されたとされる瞽女集団の最後の1 人のハルさんは、まさに20世紀の生き証人。この日も祝福に涙を流しながら、得意の「出雲節」を披露、張りのある声を響かせた。1900年(明治33年)1月24日、現在の三条市に生まれたハルさんは生後間もなく失明し、5 歳のとき、瞽女に弟子入り。以後、厳しい修行に耐え、新潟、福島、山形など各地を旅する「越後瞽女」として、70年近くにわたって活動してきた。73年に養護施設に入所するまで、ハルさんが覚えた瞽女唄は、民謡、小唄など数百曲にのぼり、現在でも約50曲は歌うことができるという。78年には、瞽女唄の伝承者として人間国宝に認定され、翌79年、黄綬褒章も受章した。この日は、ハルさんの誕生日を祝おうと、親族や役場職員らが入れ代わり立ち代わり、ホームに駆け付け、「また唄を聞かせてね」などと声をかけられ、ハルさんは「年だごて、転んでばっかりすんけんど、オレは全然疲れないすけ」などと笑顔で答え、元気な様子を見せた。出身地の三条市や黒川村からも満100 歳を記念して特別表彰され、三条市の高橋一夫市長が「これからも長生きしてくださいね」などと、車いすのハルさんの耳元でささやきかけると、「私のためにたくさんの人が駆け付けてくれて、本当にありがとうございます」と、喜びの余り涙ぐむシーンも。報道陣から「1曲歌ってください」とリクエストされると、「三味線ひかれんようになって、瞽女らしくなくなったて」などと周囲を笑わせながら、18番の「出雲節」を歌いあげた。ハルさんは、ホームでかつての瞽女仲間らと穏やかな生活を送っており、足腰が弱り、歩行器に頼ることが多いものの、健康状態は良好だという。 (新潟日報 1999年11月1日付) ●最後の瞽女 百寿の唄 「最後の瞽女」と呼ばれる人間国宝・小林ハルさんが来年一月に満百歳を迎えることから「百寿を祝う会」(瞽女文化を顕彰する会主催)が三十一日、新潟市総合福祉会館で開かれ、駆けつけた弟子や市民ら約三百人の前で、ハルさんは久しぶりに元気な歌声を響かせた。室町時代から伝承され、盲目の女性芸人たちが山村を渡り歩いて唄(うた)や語りを伝える瞽女は、貴重な娯楽と情報の伝搬者だった。今世紀初頭には県内に五百人とも千人ともいわれる瞽女がおり、瞽女文化は「視覚障害者と健常者を結ぶ福祉の原点」とも言われている。ハルさんは、明治三十三(一九〇〇)年、三条市の農家に生まれ、生後間もなく失明、五歳から瞽女の道に入った。雪の中で声がつぶれるまで歌うなど厳しい修行を続け、県内各地や福島県、山形県などへの旅を繰り返して、昭和四十八年に福祉施設に入所するまで第一線で歌ってきた。持ち唄は七百曲にも及ぶという。現在は北蒲黒川村の養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」で弟子たちに唄を教えながら暮らしており、「祝う会」には車いすで出席した。 会では、顕彰する会の高沢正樹会長が「ハルさんが一世紀近く続けてきた瞽女文化を、後世にも伝えていきたい」とあいさつし、記念品を贈呈。満員の場内に、ハルさんは緊張しながら「大勢の人にお祝いしていただき、ありがとうございます。やすらぎの家で幸せに暮らさせていただいています。こうしてみなさんと会えてお話しできるのが一番楽しいです」とお礼を述べた。続いて、久々に人前で唄を披露。三味線の伴奏が始まると緊張も解けた様子で、ハルさんは「出雲節―ミカンのくどき」を朗々と歌い上げた。会場のホール中に響きわたる歌声に、参加者は「百歳とは思えない」と感嘆の声を上げながら、盛んに拍手を送っていた。 (新潟日報 2000年1月25日付) ●最後の瞽女の100歳祝う 最後の瞽女(ごぜ)といわれる三条市出身の小林ハルさんが二十四日、北蒲黒川村の養護盲老人ホーム・胎内やすらぎの家で百歳の誕生日を迎えた。伝統ある口承文芸の瞽女唄を長年に渡り伝承・普及した功績をたたえ、同市は個人としては初めて特別表彰することを決定、この日午後に高橋一夫市長と親族らがハルさんを訪ね、表彰式を行って長寿のお祝いをした。小林ハルさんは一九〇〇(明治三十三)年、同市三貫地生まれ。五歳で師匠に弟子入り、県内外を巡業に回った。七八年には人間国宝として黄綬褒章を受けている。修行は厳しかった。冬の河原に肌着一枚で立ち、対岸に声が届くよう大声で歌う練習をして、のどから血が出たこともあった。師匠には「もう故郷には帰れないぞ」と言い聞かされていたという。七七年からやすらぎの家に入り、穏やかな日々を送っている。表彰式では、高橋市長が「暖かくなったら三条にいらしてください」とハルさんに表彰状と記念品の補聴器などを贈った。ハルさんは「こうして(三条の)皆さんに来ていただけるとは思わなかった」と、涙を浮かべながらもしっかりした声で感謝の言葉を述べた。午前中には伊藤孝二郎黒川村長が訪れ、ハルさんに賞状と百歳の祝い金を贈った。 |
小林ハルさん、101歳 |
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引用・参考文献 「最後の瞽女」 桐生清次 文芸社 「鋼の女」 下重暁子 講談社 「瞽女の民俗」 佐久間惇一 岩崎美術社 「瞽女」 鈴木昭英 高志書院 「わたしは瞽女」 大山真人 音楽之友社 「瞽女さは消えた」 村田潤三郎 新人物往来社 「瞽女さん」 杉山幸子 川辺書林 「盲目の旅芸人」 安達浩 京都書院 「聞き書 越後の瞽女」 鈴木昭英 講談社 |
視聴映像 「瞽女ごめんなしょ」 1975年放送 「越後瞽女今昔」 1985年放送 「よみがえれ瞽女唄 最後の瞽女 小林ハルの一生」 1988年放送 |
参考CD 「最後の瞽女 小林ハル 96歳の絶唱」 瞽女文化を顕彰する会 |