| 瞽女さん | |
| 瞽女(ごぜ)とは、三味線を携えて村々を旅し、語り物・流行唄・民謡などを歌い歩いた盲目の女性を中心とした女旅芸人のこと。370年以上の伝統を持つといわれ、室町時代に鼓を打ちつつ曽我物語などを語る盲女がいたことが始まりではないかといわれている。その後、沖縄から三味線が伝わり盲目の琵琶法師たちによって改良され普及し始めると、彼女達はいち早くそれを取り入れ盲目の女性だけの芸能集団を作り上げた。近世に入り、城下町を中心に諸国で地域的なまとまりのある瞽女の自治集団が形成されていく。江戸期には全国的に瞽女の姿を見ることができた。やがて、いく度もの繁栄と衰退を繰り返し明治以降に衰退の一途を辿る。それでも越後地方においては昭和の時代まで栄え、昭和52年に瞽女が最後の活動を終えるまで続いた。新潟では長岡市と高田市を中心に数多くの瞽女組があった。明治20年代には長岡組が400人近く、明治34年に高田組が97人の瞽女を擁していた。 |
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| 段物 | |
| 段物(だんもの)は別名を「祭文松坂」という。祝儀唄の「松坂節」の影響を受けている。 長い物語を幾段かに区切って歌い継ぐために段物という。
三味線の伴奏は三下りの単調な繰り返しが多い。 「葛の葉子別れ」「小栗判官」「山椒太夫」「石童丸」「俊徳丸」が名曲とされている。 |
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| 瞽女唄 | |
| 瞽女が歌う唄で、民衆の要望やその頃の流行を多く取り入れていた。そのため流派や時代によって大きく変化した。瞽女専用の唄ということではなくて、昔から伝わる民謡や物語などを瞽女節で歌った唄といえる。種類は近世において次のものであった。 「祭文松坂(段物)・口説・門付け唄・端唄・長唄・常磐津・清元・新内 都々逸・義太夫さわり・三河万歳・春駒・民謡・流行唄」 そして瞽女の表看板に揚げられていたのが、「段物」と「口説」であった。 |
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| 葛の葉子別れ | |
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葛(くず)の葉姫の物語で内容は次のものだった。葛の葉姫は狐の仮の姿だった。ある日、狐狩りの時に命を救われたことから葛の葉姫に化身し、命を救ってくれた男の子どもを産んでしまったが、自分は狐。やがてその子が5つになり、自分の化身が現れる時がきてしまう。子どもを置いて信太の森へ帰る母親の哀しみを歌った唄。戦時中は夫や息子を戦地へ送った婦人が咽び泣いたという。 |
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| 杉本キクイ | |
| 明治31年(1898年)新潟県中頸城郡諏訪村東中島に生まれる。6歳の時に医師の誤診で失明。7歳で瞽女になるために高田本誓寺町の杉本家へもらわれる(養女となる)。高田瞽女として旅に出、22歳で杉本家の親方となる。67歳(昭和39年)、弟子のシズ・コトミと共に高田瞽女最後の旅を終え、3人でひっそりと暮らし始める。73歳(昭和45年)で国の無形文化財(人間国宝)に選択される。76歳(昭和48年)に黄綬褒章を受章。昭和58年3月30日、85歳で永眠。 「もしも、もう一度生まれ変われるんなら、目明きの普通の娘になって毎日をおくりたいと思うね。あの椿の赤い花や、げんぼしの青い葉っぱ、それに懐かしい瞽女宿の人達の顔をこの目で見てみたい。でも、これもすべては因縁さ、諦めているよ」。6歳までは目の見えたキクイさんにとって色は、記憶の中で後年になるほどに輝きを増していったものなのだろう。 |
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| 杉本シズ | |
| 大正5年、新潟県中頸城郡中郷村岡沢で生まれる。生まれた時から目が見えず、母親とも2歳で死別。7歳で瞽女になるため杉本家にもらわれる。親方の杉本キクイのもとで修行に励む。杉本キクイ・難波コトミと共に最後まで旅を続ける。昭和59年4月、難波コトミさんと共に養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入る。親方は修行を離れると常に優しくしてくれ、ここに入れたのも親方の人柄のおかげで、親身になって心配してくれる人がいたからだ、と語っている。 |
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| 難波コトミ | |
| 大正4年12月生まれ。詳しい年代はわからないが、少女の頃に杉本家へ手引きとして使ってほしいと願い出る。目は弱視で少しは見える。しかし身内の反対で実家へ連れ戻されてしまう。ところが、コトミさんは瞽女の世界が好きで家出してまで杉本家へ戻ってくる。その後は杉本家で杉本キクイ・シズと共に手引きも兼ねて旅を回る。昭和59年4月、杉本シズと共に「胎内やすらぎの家」に入る。 |
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| 高田瞽女 | |
| 越後の瞽女の中でも、その活動拠点の地名により、高田組・長岡組・刈羽組・三条組・糸魚川組・など多数の組織に別れており、それぞれに独自の形態があった。その中で長岡瞽女と並んでメジャーな組織だったのが高田瞽女であった。旧高田藩の庇護のもと無償で宿を提供してくれる地主との繋がりも強く、長岡瞽女の多数の組と比べれば宿に困ることはほとんどなく、旅も安定したものであったという。親方と弟子の関係は、長岡瞽女の場合師匠が弟子の実家へ通いながら教えるのを基本として弟子も実家や自分の家から旅に出るのが普通であったのに対し、高田瞽女の親方は高田の町に自分の家を構えることが条件で、弟子は養女とするなりして住み込ませ、一家を成す。旅や生活の決まり事は一家を核として、親方の合議によって決まる。高田市と長岡市は地図で見れば分る通り、相当離れており間には高い山があることから、高田瞽女と長岡瞽女の交流などはなかった。だから、言葉や節回し、歌った唄の内容など大きく違う点がある。この2大組織の経営形態の違いは、現代に例えれば高田瞽女が「マクドナルド」のような直営方式、長岡瞽女が「セブンイレブン」のようなフランチャイズ方式といえる。 |
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| 長岡瞽女 | |
| 前述の高田瞽女と双璧を成す越後瞽女の一大組織。長岡市大工町に280坪の巨大な瞽女屋敷を有していた(戦時中に焼失)。代々その家長は盲女で「山本ゴイ」を襲名した。山本ゴイは、中越地方全域に散在する瞽女を統率した。その下には散在する多数の組があり親方がいた。親方は、高田瞽女の親方のように家を持つことが条件ではないので、弟子の形式にも「内弟子」や「通い弟子」などさまざまな形があった。高田瞽女ほど師匠と弟子の関係は深くはなかったといえる。今の「華道」などの家元制に類似しているのではないだろうか。 |
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| 中静ミサオ | |
| 大正元年11月25日に新潟県三島郡越路町飯塚に生まれる。4歳のとき重いハシカにかかり、盲目となる。11歳の時に長岡系岩田組に入門し、15歳の6月に金子セキさんと共に初旅に出かけた。以後、セキさんと50年以上も旅を続け、日本の瞽女史上最後の瞽女活動を昭和52年初夏に終える。同年6月22日のよく晴れた日、金子セキさんに続いて養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入る。 |
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| 金子セキ | |
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大正2年1月28日に新潟県三島郡越路町岩田に生まれる。3歳のときに重いカンの虫になやまされて盲目となる。4歳のときに長岡系沼田組に入門し、14歳の6月に初旅に出かける。中静ミサオさんとはその後に出会い、50年以上の長きに渡って共に旅を続け、日本最後の瞽女活動を昭和52年春に終え、同年4月25日のよく晴れた日に中静ミサオさんより少し早く、「胎内やすらぎの家」へ入る。 |
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| 手引き | |
| 瞽女の旅は2〜4人一組ですることが多い。大きな村までは大人数で一緒に行くことはあっても、門付けなどは小さな組に別れてまわる。そんな旅で全盲の人がほとんどである瞽女さんの、先頭を歩き道案内をするのが手引きと呼ばれる人達であった。手引きの多くは弱視であったり、知的障害があったり、家の事情などでなる者が多かった。手引きは基本として瞽女唄を歌わないし、教えてももらえない。三味線も習わない。手引きのみが仕事となる。ただ、半盲の瞽女さんが手引きを兼任することはあった。手引きの場合、転職や結婚などで、瞽女の世界に身を置き続ける必要がなかったからであろう、という。 |
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| 関矢ハナ | |
| 明治42年、新潟県新潟県三島郡越路町山屋に生まれる。金子セキさんの親類で、昭和34年から手引きとして瞽女さんの道案内を始める。体も大きく、声も大きく、門付けで「ごめんなしょー!」と民家を訪ね歩く姿は迫力がある。 |
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| 門付け唄 | |
| 門付け(かどづけ)にまわる時に歌う唄で、比較的短く、その頃の流行を取り入れることが多かったという。 ●「一口文句」 (前略、後半部) ♪はでな桜の 一枝よりも 地味な松葉で 末永く ぬしは松たけ わしゃ鶴亀よ つたのうけはし たから船 ♪月をまくらに 朝日をだいて 宝おししの 夢をみた 扇めでたや まほとひらく なかに鶴亀 ごよの松 咲いた花より 咲く花よりも さかぬお主の そばがよい ♪あいた見たさに とびたつように 親が出さぬは かごの鳥 さいてみる気は 山々あれど わたしは植木で ままならぬ ●「岩室」 ♪咲いた花より 咲く花よりも 咲かぬおぬしの そばがよい 松の葉のよな ちぎりが欲しい 枯れて落ちても 二人連れ ♪狭いようでも 広いはたもと 文のやりとり恋の宿 見ても見飽きぬ 洗濯娘 たてし鏡とぬしの顔 ♪声がよく似た 来るはずはないが これもわたしの気の迷い 切れていたとて 便りは出さぬ いやで別れた仲じゃない 心せけども 今この身では 時節待つよりほかはない |
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| 門付け | |
| 門付け(かどづけ)は、巡業地において日中に一戸一戸の民家を巡って短い唄を歌い継ぐもので、夜に行われる瞽女宿等での宴会の宣伝も兼ねていた。門口の戸を開け「ごめんなしょー」(地方により言い方は変わる)と家人に声をかけて、三味線を弾き始め唄が始まる。見返りに米なり金なりをもらって隣家に移る。茶碗一杯程度の米を渡す家が多かったという。貰った米は多く貯まると商店などで現金と交換してもらう。 |
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| 瞽女宿 | |
| 瞽女のために無償で宿を提供してくれる家で、村の庄屋や名主などが多かった。何代にもわたって瞽女宿としている農家も多く、その宿が瞽女唄披露の会場となった。しかし、戦後の農地改革で瞽女宿の多くは瞽女を泊め、客を招待する余裕もなくなる。そのことも瞽女が急速に衰退していった要因の1つだった。初めて訪れる村、小さな村などでは宿を頼んでまわらなくてはならなかった。時には瞽女を歓迎しない家もあり容易ではない時もあったという。 |
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| 口説 | |
| 口説(くどき)は段物と比べ短く終わる語り唄で、七七調の文句が多いという。「鈴木主水口説」「お吉清左口説」「お条左伝次口説」などがあるが、所属した組織によって内容は大きく変わった。 ●「へそ穴口説」 少し滑稽な唄 (前半一部) ♪あわれさえなるかなへそ穴くどき 国はどこよとたずねてみれば 国は内股ふんどし郡 だんべ村にてちんぼというて おそれおおくももったいないも 天の岩戸の穴よりはじめ 亭主大事にこもらせたまい ♪富士の人穴大仏殿の 住穴にもいわれがござる 人の五体に数ある穴に わけてもあわれやへそ穴くどき ●「ねずみ口説」 ♪わたしゃサエ 煙る裏でねずみに生まれ 家がなければ 住まいも出来ぬ 屋根がヤバラで 住まいをすれば 日には三度の煙が立ちて 毛とも皮とも一枚着物 あまり汚れて人目が悪い それはよけれど 食う物もない 銭を持たねば 買うこともない 何かないかと 探しに出れば 麻種豆種 種籾などは 皮がこわくて 食えあぐらねて 思いついたく 白米俵 ころりころりと 毎晩出づめだ やれうれしい 沢山詰めだ うれしなげりに 声せをだして そこでねずみが おけさ節踊る ねこやいたちが この世になけりゃ おらも楽々 遊ばれようもの おけさ踊って 飛び上がりながら 板を外して 下へと落ちる ちちがたがたに どたらにばたら ねこは喜び その音聞いて 早くねずみに 飛び掛ります 親を取られて 悲しむもある 子も取られて 泣くものもある ♪うらやましいのが この家のねこよ ねこよねこよと 大事にされて お客ござるたび 客人なみに うまいもの食って よいこと聞いて とかくご隠居の 贔屓であれば あれもねこよと 魚をもらえ 人の正座や 横座へ並び 哀れ者として ねずみのひとは 今朝も姉さの 仕業を見れば しょっぱねずみの 生けとることを ねずみ死骸を 踏んだり蹴ったり 哀れはかなき ねずみの最後 見ると踏まれない ねずみにさーエ |
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| 流行唄 | |
| 流行(はやり)唄は、その名の通りその時代の流行唄。人の気持ちを花や物や駄洒落で例え、情緒豊かに歌われたことだろう。 ●「新磯節」 (前半部) ♪わたしとあなたは 酒屋の枡よ 一合 二合 三合 四合 五合 六合 七合 八合 惚れてついに 一緒(一升)になる身じゃないか (アラ イッサリー スカドント) ♪わたしもなりたい敷島タバコ 好いた(吸いた)お方の 手につぶされて 口に吸われ 灰になるとも わしゃ厭やせぬ (アラ イッサリー スカドント) ♪花の電車は 電気で走る 回る水車は あら谷の水 私しゃあなたの 心次第に 回ろじゃないか (アラ イッサリー スカドント) |
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| 雑歌 | |
| 雑歌(ざっか)は、萬歳・祝い口説・松坂節などの総称で、祝儀唄や祝福するための唄が多い。 ●越後追分(松前) ♪松前のずっと向こうのえぞ地の茶屋で 立つとき急いだことゆえに 笠と盃つい忘れ あとでのむやらかぶうるやら ♪ さらばというては あの森のかげ ちらちら見ゆるは菅の笠 こんど逢うやら 逢わぬやら 思えば涙が先に立つ くよくよするなよ世間はくるま いのちさえありゃ めぐり逢う ♪奥山の滝に打たれし あの岩さいも 四つ屋で初めて逢うたとき 好いたらしいと思うたが いつほれるともなく 深くなる ♪水仙のはかまぬがせて はとはをあわせ 生けて楽しむ床の間へ 連れてきました この花むすめ お渡しましたよ ぬしさんへ 受け取りましたよ さくらばな みごとに咲かして すえまでも ♪立山しぐれば 越後は雨だ ヤンサノエー かすかに見ゆるは 佐渡が島 佐渡の三崎の あの御所桜 枝は越後へ 葉は佐渡へ こいというたとて 行かりょか佐渡へョー 佐渡は四十九里 波の道 波の道でも くる気があればネー 舟に櫓もある 櫂もある |
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| 伊平タケ | |
| 明治19年(1886年)、新潟県刈羽郡油田村に生まれる。5歳のときにハシカにより失明。同じ歳、刈羽系瞽女の武田ヨシに弟子入りする。9歳の時に初旅に出、以後刈羽瞽女として26歳まで旅を続ける。27歳(大正元年)に伊平伝吾と結婚し、瞽女を辞める。瞽女を辞めた後の41歳(昭和2年)に東京放送局に出演し瞽女唄を披露する。55歳、夫伝吾氏が死去。息子夫婦と共に81歳の年に埼玉県東松山市に移転する。その間にもNHK、TBSで瞽女唄の録音をし、それが放送される。昭和40年代は瞽女への関心が高まった時であったらしい。昭和45年85歳の時、日本の無形文化財(人間国宝)として選択され、昭和48年には黄綬褒章を受章する。共に高田瞽女の杉本キクイさんと並んでのものだった。昭和52年92歳で永眠。
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| 妙音講 | |
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妙音講(みょうおんこう)とは、瞽女の守り本尊とされる弁財天の供養会のことで、流派により形式や開催日が若干異なる。長岡瞽女の妙音講は毎年4月17日に行われた。会では「御条目(おじょうもく)」が朗読され、瞽女達の最も重要な行事であった。所属瞽女はどんなに遠くの旅に出ていても必ず帰って参会するのが決まりであったという。大正4年の長岡瞽女妙音講の参加者は360名程であった。供養の後は唄へと続き、新しい唄を披露し合う場でもあった。近隣には露店も並び終日賑わった。 |
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| 御条目 | |
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御条目(おじょうもく)は、瞽女という職の始祖伝承を述べたもので、由来書ともいえる。歴史的信憑性は薄いのだが、彼女達がこれを大切にし心の支えにしていたことは重要なことと思われる。以下が内容となる。 |
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